港南剣友会 創立五十周年記念誌  

ここでは港南剣友会の会員および関係者、そして出稽古に来て頂いた先生方などからの、寄稿文をご紹介します。

寄稿文は今後も随時募集しています。
かつて会員だったという方や、子供が会員だったという方も、
是非お気軽に港南剣友会への想いをお寄せ下さい。

楽しみにお待ちしています。

kounan_ken@yahoo.co.jp 
 ( 敬称略 )  

 

港南剣友会相談役
伊東 廣明
想い出

創立五十周年おめでとうございます。
剣道との出会いは、中学2年生、剣道復活の時でした。社会人に成って十数年のブランクが有りましたが、剣道が恋しくなって、創立間もない港南剣友会に当時の港南区剣道連盟理事長の紹介で入会し、現在に至っています。

初代港南剣友会会長 杠(ゆずりは)先生は、同郷佐賀の生れで中学、高校生時代に昭和の剣聖大麻勇次範士十段に教導を受けられ、江崎グリコの少年のモデルは杠少年とも云われています。科学技術庁原子力局長、大学講師、発明協会参与等々の経歴をもたれた方でした。高橋後援会長は、最盛期に約500人の会員の為に、日野、港南台、芹が谷、野庭方面の小学校、消防署施設開放等を積極的に依頼されました。その結果が今日の各団体の基礎に成っています。この両会長無くして港南剣友会は誕生し、発展しなかったでしょう。

当時は、桜岡小学校週2回、港南中学校で週1回稽古をしていました。私は、入会して基本錬成の指導を手伝い、桜岡小学校のステージ上から体育館一杯の子供達に号令を掛けていました。掛り稽古は、積極性の無い子供は1~2回しか出来ない状況でした。子供たちは必死でした。この状況を改善するため、後にトラブルの元になった子供たちの級の格付けを実施して、3部制に分けて稽古をしていました。港南中学校での夜間の稽古には、長女を連れて雪の夜でも山道を行っていましたので、子連れ狼が来た等と言われたのが懐かしいです。また、長男が初めての稽古の後『僕、一人で帰られるよ!』と山道を帰る姿が逞しく見えた、嬉しい思い出です。

港南剣友会入会後73歳で会社を卒業するまで、仕事も剣道も一生懸命頑張りました。稽古は、ほぼ港南剣友会のみでした。それは『ヤル気のネエ者には、剣道は、教えネエ!』と云う良き先生、同僚に恵まれたこと、そして元気な子供と子供を支える父兄の姿が私の力に成りました。懸命に稽古する子供達の姿が私の先生であり剣道を続ける源になりました。

想い出に残る行事として、自衛隊武山駐屯地、勝浦日本武道館別館、大平キャンプ場、桜岡小学校体育館、野島研修センター、観音崎少年の村等での合宿地引網、大雄山ハイキング、工場見学、子供の国、金沢動物公園等レクリエーション、水戸東武館、日本武道館等の全国大会出場、留学生との剣道を通じての交流等色々想い出が浮かびます。東日本大震災で被災した石巻市立谷川小学校(2012.3閉校)の七人の生徒との交流、石巻湯殿山剣道スポーツ少年団との交流等記憶に新しいもので、子供達は逞しく成長していると思います。

創立五十周年を迎え、歴代会長先生、杠 文吉先生、高橋源寿先生、長田 良先生、荒井正巳先生、畑 一郎先生、田野井一雄先生のご指導を心より感謝申し上げます。各先生の指導のもと港南剣友会の多くの先輩が社会人になっても剣道を続けて、教育分野、官公庁、各企業、家業を継承し活躍している姿が私の支えになっています。最近では、アタックNO1で目標に向ってコツコツ努力を続け、努力を惜しまず、努力しないことを戒めチャレンジする姿が私を元気付けています。

私をここまで育てて戴いた港南剣友会に感謝しつつ、今後も健康に留意し唯々稽古に励みたいと思います。

 

 

指導部長
武蔵大剣友会会長
佐藤 則夫
 「剣縁(けんえん)」

剣の縁(えにし)、ジャパンエナジー元社長佐々木陽信先輩の言葉です。

歳も47才にならん頃、霞のような人生も具体的に最終コーナーにさしかかって来た感が、毎日の出勤途中の電車の窓に映し出される。

そんな時、その頃、はやり始めたHPに学生時代の知り合い成蹊大の雨宮君が剣道で七段目指して、楽しそうに稽古しているページが目に入り、雨宮君剣道してるんだと感嘆していました。会社のPCで追いかけて検索していましたが、新しい投稿が入らなくなりました。ある大会の審判に駆り出された時に、成蹊の先輩に雨宮君この頃どうしてるの?と聞くと、雨宮死んだんだよの返事。えっ。あんなに楽しそうに剣道し、七段目指していたのに・・・・。

具体的にその頃、自分の最終コーナーで、雨宮君が目指して果たせなかった七段を、私が替わりにとの思いが心に芽生えました。そんな時、南区六ッ川在住なのですが、イトーヨーカドー堂に買い物に行く途中の幼稚園の告知板に、港南剣友会の勧誘のチラシが目に入り、25年間鈍った体を桜岡小学校に運んだ次第です。

今は亡き相田先生、藤原先生、逸見先生方に導かれ、現在に至っております。何を血迷ったか八段を目指して、剣の理法を日々修練してしております。

これからも、港南剣友会の皆様方には、宜しくご鞭撻の程お願い申し上げます。


 

指導副部長
児玉 成時郎
創立五十周年を迎えて

ある日曜日の朝、私は運動に全く興味を見せない息子を連れて、約20年ぶりに桜岡小学校に行きました。息子が小学3年生になる少し前の時のことでした。

体育館の中では、昔と同じように竹刀の音と気合いの入った声が響いていて、私は息子の手を引きながら一礼をして体育館に入り、隅に座って見学をさせてもらいました。しばらくして息子は稽古着姿の女性に勧められて「体験」をさせてもらい、私はその様子を見ていました。すると先ほどの女性が「お父さんもやってみませんか。経験はありますか。」などと話しかけてきました。私は「はい。昔、ここでやっていました」と答え、竹刀を借りて素振りをやろうとしたとき、上座の方から伊東先生が「おー 児玉君、よくきたね」と言いながら笑顔で駆け寄ってきてくれたのです。その笑顔は「お帰り」という言葉を感じる温かいもので、このときの先生の顔は今でも忘れられません。そして見学が終わった帰りの車の中、私が長男に「剣道やってみるか?」と聞くと「うん、やってみる」と意外な答えが即答で返ってきて、これから我が家の剣道生活が始まったのです。

そんな長男も剣友会を卒業して、今は大学生です。そんな卒業生達が、自分の子供を連れて、桜岡小学校に戻ってきてくれる時のために、これからも剣道を続けて行こうと思います。



 

児玉 裕由
港南剣友会三人娘と偶然

三人娘 児玉幸子(イトコ同志)駒杵美恵子そして松本あけみ、三人同学生。
三人が小学生の頃、桜岡小学校体育館に剣道の稽古に来て、女子更衣室に入り出て来ない。中でベチャクチャおしゃべり、ようやく出て来ると稽古終わりの正座。又、更衣室へ 着替えて涼しい顔で帰る。それでも稽古はやるときはやっていたみたい 先生方は何も言わない笑っているだけ。

この三人が中学校一緒の港南中学校そして剣道部 (先鋒)駒杵(美) (中堅)松本(あけみ) (大将)児玉(幸) で市大会、県大会優勝。高校は、児玉(幸)神奈川東海大相模(高)、駒杵(美)大阪PL学園(高)、松本(あけみ)九州へ、それぞれ剣道部で活躍。そしてインターハイが四国の丸亀で開催され各県代表校が全国一を目指して熱戦がはじまり対戦相手を見て驚いた。神奈川代表 東海大相模(高) 対 大阪代表 PL学園(高) そして、児玉(幸)イトコ同志、駒杵(美)が同じ副将戦対戦。延長戦まで戦って笑ってました。こんな偶然てあるのかなとびっくりしました。

三人娘の一人 駒杵(美)が剣道の名門校 東海大学へ入学し大学で活躍し、女子の全日本選手権に神奈川代表で出場 ベスト8まで進みました。

今は三人、剣道は青春の思い出としてそれぞれの人生歩んでいるようです。剣道思い出して下さい。港南剣友会に来て下さい。三人娘も今は40代ですね。

剣道親子孫三代楽しかった応援の数々(息子、娘、孫)


小学生:港南区剣道錬成大会、全日本剣道錬成大会(日本武道館)、他、色々な大会
中学生:市大会、県大会、関東大会、他
高校生:県大会、関東大会、インターハイ3回(秋田、山口、四国丸亀)、国体2回(鳥取山梨)、玉竜旗(九州)、黒潮旗(東海大)、若潮旗(武道大)、他
大学生:新人戦(神奈川)、関東大会(東京)、全日本学生優勝大会(大阪)、他

数々の応援で悔しい思いもありましたが、素晴らしく楽しかった方が一杯で、今も時々、色々な試合を思い出し、懐かしんでいます。

剣道は素晴らしい!
親子孫三代で剣道の稽古ができる、こんな嬉しいこと、他に無いと思います。

稽古での一コマ。息子、孫と真剣に竹刀を合わせる、目と目が合う、あっという間に打たれる、強いな!と満足する、それでも私を立てようとする気持ちが嬉しい。そして、おじいちゃん無理しないで気を付けてね、と孫が気遣ってくれた。ありがとう!感激し、剣道やっていて良かったと思った。

これからも健康第一で稽古させてもらいます。先生方、ご父兄の方、宜しくお願い致します。

   

 

吉野 正
港南剣友会の50周年記念について

第50周年錬成大会を迎えたことは、誠におめでとうございます。
これは会の発足からご苦労をされた伊東先生をはじめ各先生方のご尽力と父母会のご協力があっての賜物と思われます。ここで父母会の前身に後援会というものがあり、会の存続に欠かせないものがあったことをお知らせしたいと思います。その前に港南剣友会を発足させた高橋源寿先生がおられたことを少しご紹介いたします。

先生は、芸能界でも有名な今年亡くなられた『ジャニーズ事務所のジャニー喜多川氏』と似ている部分があると思いました。ご両人とも父親が住職であり、海外生活を経験して戦後通訳業務をやっていたことがある。そして活動の新しい企画を実施してきた事などです。高橋先生は戦後マッカーサー元帥が来日しているときの通訳をやっていたとお聞きしています。また芸能界にも通じており、港南剣友会を青少年のために活動の場を作り、後援会の組織でバックアップしたいと考えていました。私が港南剣友会に入門したのは昭和40年代後期で、当時はまだ勤労学生中のため暇がなく、卒業近くになりやっとスポーツをやれるのは高校時代に経験した剣道しかありませんでした。

稽古に熱中しているころに高橋先生から後援会で作る資料の手伝いをやってくれないかと誘われ、プリント作成のためのガリ版切り等をやったことも思い出となりました。作業後は後援して頂いた飲食店に行き深夜まで飲んでいた事もありました。高橋先生は大会があるときは協賛金を募って運営をして、プログラムには協賛金を頂いた店舗の広告を入れる企画を実施していました。当時、他の道場関係団体ではどこもやっていませんでした。

また、当時の港南剣友会では個性のある野武士軍団のような先生方が多く、なかには青年指導員の相田先生や伊東先生がおり、高橋先生からは港南剣友会は相田先生と伊東先生がいる間は大丈夫だから君も手伝ってくれないかと依頼されました。当時は子供の会員に児玉(成)先生や吉田(紀)先生、石澤さんも頑張っておりました。それ以来、剣道の下手な私も指導者のまねごとを続けてきた次第です。(私事ですが、結婚に際しては高橋先生に媒酌人をお願いしておりました。)

これからの港南剣友会の発展のためにも吉田(仁)先生を筆頭に 一致団結して存続させていきましょう。


 

 

青木 清二
創立五十周年を迎えて

私が港南剣友会に入ったのは平成8年2月11日です。前日の土曜日午後5時に見学しようと家族で桜岡小体育館に行ったのですが,既に稽古は終わっていました。帰ろうとしたところ,たまたま門にいた女性から,清島先生宅に行くよう言われました。清島先生宅では,突然伺ったにもかかわらず,丁寧な説明と温かいおもてなしを受けました。

稽古には,最初,小二の長女花織とふたりで参加し,その後,年中の二女萌も加わりました。娘らと一緒に稽古に行く日は幸せな気分でした。以来,先生方から真摯な御指導をいただき,お陰様で思いの外高段位をいただくことができました。また,長女は同じ大学の剣道部員と結婚しましたし,二女は一応職場の剣道部に籍を置いているようで,いずれも剣道とのかかわりが続いています。

港南剣友会に入って良かったことは,稽古を通じて健康が維持できていること,剣道形や基本をしっかり指導してもらえること,子どもたちの成長と可能性が実感できること,そして,娘らとのコミュニケーションに役立ったことが挙げられます。

剣道は奥が深く,なかなか上達せず,苦労していますが,続けていけばそのうち良いことがあるのではと楽観しています。そして,将来,児玉先生や相田先生のように親子孫3代で剣道ができたらいいなと密かに思っています。

港南剣友会のますますの御発展を祈念いたします。

 



森田 健一
港南剣友会創立50周年を迎えて

港南剣友会50周年おめでとうございます。

私が港南剣友会に入会させて頂いたのは、2009年に転勤で横浜に初めて来たことがきっかけでした。初めて住む横浜では知り合いもおらず、インターネットで稽古場所を探す他なく、ホームページが充実していたこの剣友会の門をたたくこととなりました。

随分とおぼろげになってしまいましたが、印象としては行事が多いな…参加できるかな…という思いだったかと思います。転勤1年後には長期の出張となり、それ以降は仕事柄により出張が多いのと、子供が小さかったこと、審査等もうまくいかず道場への足は遠のくばかり…案の定、稽古・行事等にはなかなか参加できずにいました。ただそのような環境の中でも、たまに稽古に行かせて頂くと、「久しぶりだね」「稽古してた?」「また来てよ」など皆様温かく声をかけて下さりました。

その皆様のご厚意に甘えて、細々と稽古に参加させて頂き、50年のうち10年間程在籍していることに最近気づきました…(自分でもビックリしています)。そんな私も、今年めでたく六段審査を合格させて頂きました。この記念の50周年に私自身も節目を迎えることができたことが不思議な縁かな…と勝手に思っています。今まで審査に落ち続けていても、ご指導を続けて頂いた先生方、10年もの間在籍させて頂きました剣友会の皆様にはただただ感謝するばかりです。

今までご指導頂いた分まで、少しでも港南剣友会の活動に貢献させて頂き、これから60年、70年と続くために力になれたら…と考えています。



 

逸見 幸子
創立五十周年を迎えて

私にとって剣道とは、夫との思い出しかありません。

私が剣道を始めるキッカケは、18年位前に、夫が四段へ昇格した時に「オレ剣道やめよう」と言った一言でした。特に趣味のない夫だったので、小学校2年生から剣道をしていた娘の防具があったこともあり、「私、剣道するから車を出して」と話し、剣友会へ送り続ける内に、皆様から声をかけて頂き、夫も稽古を再開し五段に昇段する事が出来ました。

その頃は、女性の会員の方々も7-8名いて、子供達を含む家族ぐるみの交流や女子会があり、剣道以外のたのしさが一杯ありましたね。一番の思い出は、夫が病気を患っている時に、伊東先生初め、皆様が、第41回の錬成大会で、私と夫との「剣道形」の声を掛けて頂き実現したことです(私は三段、夫は五段で「エッ」と思いましたが・・・)。

私が今も剣道を続けているのは、声も出ないはずの夫が死の直前に「剣道をやめるな」と私に言ったからです。またまだ剣道は年齢的にいつまで続けられるか分かりませんが、五段に昇格する目標に向けて頑張りたいです

 
★逸見先生ご夫妻の日本剣道形は ここをクリックすると見られます。 
 是非ご覧ください(Webマスター)
 2010年10月31日 港南剣友会錬成大会
 打ち太刀逸見隆直五段、仕太刀逸見幸子三段

 

村上 泰久
港南剣友会創立五十周年を迎えて

創立五十周年、おめでとうございます。
私達家族が港南剣友会にお世話になり始めたのは、2007年4月からになります。現在13年目ですが、私自身は何とか休会にならない程度に稽古に参加させてもらっております。娘は中学・高校と剣道を続け、体育系の学部に進み、授業で剣道を選択したようです。息子は高校で日々の練習の辛さに弱音を吐きながらも、何とか剣道を続けております。

剣道という共通の話題があることで、子供達の様子を伺い知ることが出来、大変有難く思っています。そうした剣道を続けて来られたのも、港南剣友会での温かいご指導があったからだと、改めて思い返している次第です。

これまで色々とお世話になった港南剣友会に少しでも恩返しが出来るよう、親子共々、引き続き、様々な活動に参加させていただきたく考えております。





 間庭朝昭
港南剣友会創立50周年を祝して

港南剣友会創立50周年おめでとうございます。50年という長きにわたり、多くの先生方がご尽力され、紡いでいった一つ一つの出来事が、今の港南剣友会を支えていることに、改めて敬意を評したいと思います。

私ごとですが、ちょうど今年還暦を迎え、人生の節目と港南剣友会の節目とがちょうど重なり、今までの事を顧みて、更には明日からの己の姿に思いを馳せるのもよい機会でだと思います。決して、ノスタルジックに浸って過去の煌めきなどは語れませんが、ほんの少しだけカミングアウトしてしまいます。
 
剣道との出会いは、中学校の部活動でした。背が小さく(足は速かったのでそこそこ運動神経はよかったと思っていました)球技やチームプレイは苦手だなと思ったこと、袴姿の格好良さ、それ以上に面を被ってしまえば、自分だけの世界で相手と戦えるといった軽い気持ちから入部してしまいました。それでも3年間、大した活躍するでもなく、市内大会では一応賞状をいただき(なぜなら当時地元平塚市では、剣道部のある学校が3校しかなく最下位でも三位はいただけた!)意気揚々と高校の剣道部の門を叩くわけです。

私の通っていた高校は、男子校!文武両道、質実剛健を掲げていて、部活となったらハンパなく、当時は、多くの部が関東大会へは常連、個人戦でも上位に名を連ねていた正に体育学校でした。剣道部も御多分に漏れず、自分がやってきた中学校剣道の稚拙さ甘さを知るのに一週間は要りませんでした。

最初の1ヶ月は、ひたすら素振りと発声練習、体力強化。その間には関東大会の県予選があり、先輩の付き人で防具持ちやマッサージなどなど….(奴隷の様でした).ようやく防具を着けられると思うと、そこには地獄の日々が待っていました。授業が終わって、一目散に道場へ。約3時間の稽古は、面は着けっぱなし、おまけに水は一切飲めず常に苦痛の連続でした。(今なら熱中症になると大騒ぎになっていました。)

素振り打ち込みは、良いのですが、その後の掛稽古がホントに地獄でした。3分間休みなく撃ち込んで行くわけで、最後には、息も上がってしまい、ふらふらで立ち上がることもできず、何度も気絶しぶっ倒れたことか….大会前は、これを2〜3セットやる訳です。更には、地稽古です。互角に稽古するのではなく、常に先へ先へ打ち込むことを強いられました。相手の出方などを見ていると容赦なくぶっ叩かれたり、突かれたり、蹴られたり、投げ飛ばされたりと…こちらも反撃し組んず解れつ。こういったことはしょっちゅうでした。

今にして思えば理不尽極まりない稽古の連続で、今なら即刻廃部の危機が訪れていたのではと思います。いつ辞めようかとか、病気になれば稽古休めるかななどと、そんなことばかり考えていました。ある日、献血をやったので、休めると思いきや、その愚策を見破られ、逆にボコボコにやられ、貧血を起こしたこともありました。

結局、退部する勇気も無く一年が過ぎて行く訳です。そうして、2年生になると、後輩が入ってきて今度は自分達が、後輩を可愛がる?訳ですが、間庭先輩は”仏”と呼ばれ、そういったことはやりませんでした。(多分?)、昔の運動部は、こうした悪しき伝統がまかり通っていたので、自分は大学では絶対剣道はやらないと誓い(それほどの実力も無かったですが)とうとう高校卒業する時には、剣道の用具一切を捨てて、剣道と決別を誓った訳です。

おそらく当時、多くの先生は、そうした事で強くなるんだと教えられ、経験されたと思います。今にして思えば、港南剣友会の稽古心得にもある「正しい剣道を明るく楽しく…」やれていれば、その後は、どうだったでしょうか? ただ、精神面では相当鍛えられたと思いますし、一応、中学、高校と6年間貫いた達成感はありますし、後に社会に出て、堪えるということだけは、大いに役に立ったと思います。

若い方々に伝えたいのは、物事に対し、ひた向きさと一所懸命に取り組む姿勢、そうした事を数多く経験することが大切なんだろうなと思います。勿論、剣道が強くなることも大切ですが、それ以上に心を鍛えることを忘れず、自己で考えることが大事だと思います。

これからの皆様の活躍と併せ、港南剣友会の益々の発展を祈念します。

 

 

村上 裕太郎
港南剣友会創立五十周年を迎えて

港南剣友会創立50周年、おめでとうございます。半世紀続く歴史に重みを感じるとともに、その中にいられることを嬉しく思っております。

私が港南剣友会に入会させていただいたのは5年前の2014年秋でした。就職を機に横浜に引っ越してきてから半年、仕事も一通り落ち着いたため稽古できる場所を探していたところ、すぐに港南剣友会のHPにたどり着きました。一通り拝見したところで感じた雰囲気が期待していたものだったため、「ここにしよう」と決めた覚えがあります。

港南剣友会では年間を通して様々な行事がありますが、中でも一番驚いたのは年一回、剣友会主催大会「少年剣道錬成大会」があることでした。私は中学から剣道を始めたため行事には縁がなく、また実家の周りでもこのような大会を聞いたことが無いことからとても新鮮でした。多くのお父様、お母様や先生方の前で一生懸命に試合をする子供らの姿を見て「そこ!」「おしい!」「先さき!」など、限られた範囲の大会であるのをいいことにコートの外でごにょごにょ言ったり、勝手にリアクションを取ったりと自分なりに毎回楽しんでいます。私が審判をしていた時はさすがに口には出しませんが、表情にはけっこう出ていたかもしれません。

少年剣道錬成大会は勿論子供たちが主役の大会ですが、剣友会の先生方が日本剣道形を披露する場もあります。このため選出された先生方が、毎年秋口頃からステージ上で形稽古に励まれていました。関係のない私は基本打ちの稽古をしながらその姿を横目で見て、「いつか自分もあそこで形をやることになるかもしれないけど、他にも先生方が大勢いらっしゃるしなぁ。大人会員の中ではまだまだ若輩だし、ご指名いただくとしてもあと10年くらいは無いだろう。いや、そもそも暗黙のルール(年齢制限あり、40歳未満禁止)とかもあるかもしれないぞ。」と完全に他人事と思っていました。ただ、ほかの先生方に探りを入れていくにつれ、ほぼ全員経験者であることを知り、ニヤニヤしながら当時の説明をされる先生もおられ、一抹のなんやらを感じた覚えもあります。それでも、まだまだ若輩のため回ってくることはないなと楽観していました。

毎年錬成大会の話が出てくる度に「次は誰が…?」ということを思いながらも一年、また一年と時が経ち、一通りの行事の勝手も分かってきた4年目でしょうか。先の段審査に受かったとこもあり、ついに私もご指名をいただきました。その時は、実は剣道形に対してある程度自信があったので「なんとかなるだろう」という甘い気持ちがありました。しかし、模造刀(刃引き)で稽古を始めたところ、そもそも木刀との作りの違いに戸惑い、理合に対する理解の無さにはがっくりし、「こんなんで大丈夫なのか?」という2018年秋でした。さらに更に一番困ったのは、打太刀の刃(刃引きなのに!)が迫ってくることに対して恐怖を感じてしまうことでした。打太刀の間庭先生には呼吸をよく合わせていただいており、何も心配ないことは頭で分かってはいたのですが、それでも感じてしまった恐怖は最後まで抜けることはありませんでした。昔の人、いわゆる侍のような身分の人々は、どういった気持ちで刀を振っていたのか聞けるものなら聞いてみたいものです。

錬成大会当日までの約二か月、剣道形は佐藤先生が集中的に指導して下さいました。この(キビシイ)ご指導を毎回いただいたことで、自分でも形が少しずつ上達しているのを実感することができました。佐藤先生の説明は細かいところまで網羅しており、それを様々な角度から教えてくださるのでとても参考になりました。ご自身の稽古の時間を削って毎回付きっ切りで教えていただけたこと、これはすごいことだと思います。説明内容や実例からは、長い間剣道に真摯に取り組まれてきた感じが滲み出ており、私が佐藤先生のようになるとしたら、あと50年くらいの修行が必要かと思いました。

遂に当日がやってきました。午前の部は滞りなく終わり昼休み。落ち着かない時間を過ごすのだろうと思いきや、意外と落ち着いて過ごすことが出来ました。間庭先生が探してこられた剣道形参考映像を見たり、夕方からの反省会で何を話そうかなとメモしたりと、むしろ時間を持て余していた気がします。我々のその姿を見た逸見先生にはつい「二人とも、なぁーにのんびりしてんのよ」なんて言わせてしまいました。確かにのんびりしすぎた感はありましたが、結果的に気持ちの面について、いい形で本番に臨めたかなと思います。一部始終は斎藤先生が撮影して下さった内容の通りです。見れば見るほど恥ずかしい…のは未熟の証か、といっても満足できる日は来ないと思いますが、これからも皆様と共に精進してゆければと思います。この経験というのは普通に出来るものではなく、私の剣道人生において大きな財産になったと感じております。

最後になりましたが、改めまして、ご指導いただいた先生、剣友会の皆々様に御礼申し上げます。
※うーむ、意外と真面目な内容になってしまいました。


★村上先生の日本剣道形は ここをクリックすると見られます。 
 せっかくなので是非ご覧ください(Webマスター)
 2018年11月11日 港南剣友会錬成大会
 打ち太刀間庭五段、仕太刀村上五段

 

齋藤道場剣友会
中澤 由紀子

港南剣友会創立50周年に寄せて

この度は港南剣友会創立50周年おめでとうございます。そして港南剣友会創立50周年記念大会が開催できます事、心よりお慶び申し上げます。

私達、齋藤道場剣友会が港南剣友会の稽古に参加させて頂くようになってから、もう4年程の月日が経ちます。最初は南小学校の体育館の改修工事がきっかけでした。齋藤道場の子どもたちの稽古場所がなくなり、港南剣友会にお世話になる事になりました。

体力のなかった子どもたちが、港南剣友会の先生にご指導頂き、そして又、お互いの剣友会の子どもたちが凌ぎを削り、切磋琢磨し、その甲斐あって齋藤道場の子どもたちは、改修工事が終わる半年後には、体力も、自信もつき、大きく成長しました。今の齋藤道場剣友会があるのは、港南剣友会があったからこそです。あの半年間に分け隔てなく、厳しい中にも優しく愛情を持ってご指導して下さった港南剣友会の先生方やサポートして下さった保護者の皆様がいたからこそ、今があるのだと、本当に感謝の気持ちでいっぱいです。

今の時代は、少子化ではありますが、細く長く、60、70、80、90、100周年と繁栄、発展されていく事を心より願い、お祝いの言葉とさせて頂きます。

いつまでも愛の溢れる港南剣友会が続いていきますように。



 

齋藤道場剣友会
石野 弘和

港南剣友会50周年記念

港南剣友会創立50周年をお祝いする場に同席できることを大変うれしく思います。

振り返れば2015年、南小体育館耐震工事の間、港南剣友会のご厚意で一緒に稽古させていただけるということで、一保護者として伺いました。そこには元立ちとして大勢の大人がいらっしゃり、子供も大人も、とても楽しそうでした。私はそれまでも何度か齋藤先生から「竹刀振ってみない?」とお誘いいただいたのですが、学生時代に痛めた膝と脛のことが気になりお返事できないでいました。しかし、私と同じく子供が剣道を習っている若林さん、桐原さんにお誘いいただき、子供と一緒に竹刀を振ってみる勇気をもらいました。

南小体育館に戻ってからは、港南剣友会の保護者の皆さんの取り組みを見習い、ホームページを作成して情報発信し、全日本少年少女錬成大会へ参加して、地域の夏祭りで演武するなど、剣道を中心に据えた少年少女育成と地域活性化に取り組んでいます。

最後になりますが、今後の港南剣友会のますますのご発展と、齋藤道場剣友会もともにありますことを祈念します。


 

齊藤 力弥
 創立五十周年を迎えての思い出

港南剣友会創立五十周年、誠におめでとうございます。

私が港南剣友会に初めてお世話になったのは平成16年の8月。中学時代に2年ほど部活動で剣道を習い、喘息の悪化で退部してから実に23年ぶりの再開でした。なんで剣道を再開しようと考えたのかは正直分かりませんが、東京の実家の押し入れに中学時代に使っていた防具が残っていて、母親から何とかしろと言われたことがキッカケでした。無性にやりたくなり、自宅のパソコンで道場を探し、土日の稽古ができる港南剣友会を見つけたのでした。

真剣堂さんで竹刀を1本買い、ジャージ姿で早速見学&体験入会です。今でも覚えているのが、吉田仁先生と佐藤則夫先生がお二人でデンと構え、まるで東大寺の門を両側から守る金剛力士像のようだったこと。特に吉田仁先生が正座している姿が凛としていて「こわそうだなー、大人の剣道する人はオーラが違うなー」などと少しビビったことでした。稽古が始まると伊東先生が横に付いて下さり、色々と稽古の様子や先生方のことを親切に丁寧に教えて下さいました。伊東先生は優しく全体を包み込むように指導されて、「ああ、厳しい稽古でもこれなら続けられるかなー」などと思ったものです。

当時、1級から一緒に受審したほぼ同期の井上先生や、最近お会いできなくて寂しい石澤先生、速水先生など同年代の先生方や、井上ママ先生、石澤ママ先生、坂ノ上ママ先生などの初心者部隊は、みんな一緒に菅原良先生にシゴかれ怒鳴られしてヘトヘトになったりもしました。30歳過ぎにもなる大の大人でも、はじめのうちは菅原先生は怖く感じられましたが、ご指導を受け、お話をさせて頂くうちにその優しさが心に染みることが何度もありました。が、やはり慣れるまでは菅原先生で「もう辞めよう」と思い、伊東先生で「やっぱり続けよう」と思い留まる日々でした。(すみません、少し大袈裟です)

今は亡き藤原隆則先生や逸見隆直先生にも、とても可愛がって頂きました。藤原先生は脚を悪くされており、稽古の際もあまり大きくは動けませんでしたが、地稽古をお願いしても全然面にかすることすら出来ず、躍起になって掛かっていったことを覚えています。また、とてもお茶目な先生で良く笑わせて頂きました。そして逸見先生には良くイジって頂きました。大人の合宿で下田の観音寺温泉に行く途中、踊り子号で伊東駅に停車した時のこと。「おい力弥、この駅名なんて読むんだ?」というので、「伊東」と答えたら、「お前~、伊東先生のことを呼び捨てにしたなー」と、伊東先生を目の前にして言うのです。「小学生でもそんなこと言わんわ」と心の中で思ったものです。また、何といっても「立切り」でしょうか。当時、NHKの番組で「立切り」に挑んだ剣士のドキュメンタリが放送され、逸見先生は自ら剣友会の中でそれに挑戦したのです。プチ立切りと称して、一人で多くの先生方を相手にヘトヘトになるまで立ち合います。逸見先生は見事にそれをやり遂げ尊敬しそうになったのも束の間、「今度は力弥の番だな」としきりに言うのです。もちろんそんなのお断りですが、その後の1年間、何かにつけて「力弥、立切り」と言われ続け、結局やらされる羽目に...。でも、終わった後に子供達がみんな駆け寄ってきて祝福(?)してくれたことは、逸見先生から頂いたとても良い思い出です。

取り留めの無い思い出話ばかり書きましたが、平井昭信先生との錬成大会での日本剣道形演武をはじめ、多くの先生方や子供達、ご父兄の方々とも、沢山の思い出があります。仕事人間だった私にとって、子供達や先生方と一緒に稽古で汗を流すことは本当に楽しく貴重な時間だと感じます。まだ小さな子供だった剣士がいつの間にか大きく成長し、立派な姿となって声を掛けてくれることもうれしい瞬間です。入会してからの15年間で「ただのオジサン」になるはずだった私を「剣道ができるオジサン」に育ててくれたことにとても感謝しています。

私は剣道が上手ではなく、試合も強くはありませんので、試合や指導ではあまりお役に立てませんが、会のホームページ作りを通してその活動を周囲に広め、仲間同士のコミュニティ作りと、新しい仲間が集まるようなお手伝いをさせて頂ければと思っています。創立六十周年、七十周年には、今以上にもっと賑やかな港南剣友会が見られるように、皆さんと一緒に盛り立てて行きたいと思います。


 

平井 昭信
港南剣友会創立50周年に当たり『私の港南剣友会50分の9』

港南剣友会の皆様、創立50周年おめでとうございます。

私は2010年10月、53歳で一念発起、36年間のブランクを経て、剣道修行を本格的に再開すべく港南剣友会に入会しました。

初回の稽古で準備体操での200回以上の早素振り、全くできない剣道形。
すっかり凹んで、剣道修行をあきらめようかと思いましたが、入会2週間後の錬成大会で予想外の三位入賞、すっかりその気になって気が付けば9年の月日が経ち港南剣友会の50分の9を皆さんと一緒に過ごさせていただきました。

50年の歴史から見ればたったの9年ですが、たくさんの先生方のご指導をいただき、たくさんの子供たちの成長を見るという素晴らしい経験をさせていただきました。

このまま、調子にのってあと10年修行を続け、60周年を迎えるときには『私の港南剣友会60分の19年』なんという駄文を書けるよう頑張ろうと思います。



 

石澤 正伸
創立記念に寄せて

長年にわたり、ご指導を頂きました諸先生方に、深く感謝いたします。

50年前、当時小学生の私は、港南警察署の道場で初めて竹刀を手にしました。
故人となられた藤巻先生、大井先生にご指導いただき、訳も分からず「ごめん!ごめん!」と声を張り上げ竹刀を振りました。後日、お詫びの「ごめん」ではなく「お面!!」であると納得したことが、私にとって剣道に触れた最も古い記憶です。

少年時代の剣道は、中途半端にやめてしまった事への挫折の思いばかりが心に残り、決して快い記憶ではありませんでした。平成に入り、二人の息子たちの入会を機に、再び剣友会とのご縁を得ることができ、その後まもなく、私も妻も竹刀を握ることになり、家族4人で一緒に稽古に通うことになりました。伊豆の観音温泉の体育館で、家族4人だけの合宿稽古を両祖父母に披露したことが、今は私たち夫婦にとって、自慢の思い出となっています。

現在、二人の息子も社会人となり、4人ともども剣道から離れていますが、剣道が一人ひとりの礎となり、家族の共通の記憶であることに違いありません。

港南剣友会の諸先生方、役員の皆様をはじめ会員、及びご家族の皆様方に、創立のお祝いを申し上げますとともに、記念大会及び祝賀式典へのお招きをいただき、慶びを一緒に味わう機会を頂けたことに、深く御礼申し上げます。


 

若林 隆行
創立50周年を迎えて

4年前の夏、小学一年生の息子が、保育園の時からの友達に誘われて、桜岡小の体育館に親子4人で見学に来たのが全ての始まりでした。

港南剣友会のことは、娘が赤ん坊の時代から、車で体育館脇を通りかかっては、いつも「ここで剣道をやっているんだなぁ!」程度の認識で、まさか自分が門を叩くことになるとは考えもしませんでした。

体験をさせて頂いた息子はじめ友達2人を、六年生になった娘と見学していた私は、先生方から、「せっかくだから一緒にやってみたら?」と誘って頂き、娘を巻き込む形で、「父さんもやるから、一緒にやろう!」と一緒に体験に参加させて頂きました。当時、車生活で運動不足だった私は、調子に乗って子供たちと一緒に雑巾がけを2往復やったら翌日から右足かかと上あたりに痛みを感じ、結局、アキレス腱炎で半月ほど運動が出来なくなってしまいました。これでは、まずい!と感じた私は、復帰後は、子供たちに負けじと毎週のお稽古に参加させて頂き、今でも毎週末に心地よい汗を流しております。

子供の頃から習い事など、いまひとつ長続きしなかった自分が、何故、40過ぎになって始めた剣道をこんなに楽しく続けられているのか?と考えたとき、やはり、この港南剣友会の素晴らしい先生方と、会の暖かい雰囲気のせいではないか?と感じます。稽古中はもとより、級審査・段審査などイベントのたびに先生方が、どうだった?良かったよ!おめでとう!頑張って!と声を掛けて頂いたり、集中して稽古をつけて頂いたりと、なかなか40を過ぎると人に褒められたり認めてもらえることは、とても貴重でうれしいものです。

子供たちにとっても、大人の先生方が一緒になって汗を流しながら相手をして頂ける環境の中で、沢山の刺激と良い経験を頂けていると感じます。現在、子供たちの数が少なくなってきている状況ですが、これからも60周年・70周年と歴史を刻んでいけるように陰ながら応援させて頂きたいと思っております。

 

 

桐原 誠治
創立50周年を迎えて

 50周年おめでとうございます!

私が港南剣友会に来たのは5年前、小学生になった息子が保育園の同級生と共に「剣道をやりたい」ということで港南剣友会の門を叩きました。最初は息子の付き添いで見学しているだけでしたが、伊東先生から「お父さんも一緒にやりませんか」とお誘いを受け、親子で剣道を始めました。最初はグニャグニャだった息子ですが、先生方の厳しくも温かいご指導のお蔭で、今ではかなり成長したと思います。特に良かったと思う効果は下記です。

・稽古で様々な礼節の場面があり、礼儀作法が身に付き、自制心が養われた。
・幅広い年齢層の方と剣を交え、交流を深める機会があり、コミュニケーション能力が養われた。
・剣道の打つ、捌くという動作の繰り返し練習の継続により、身体能力が向上した。
・「苦しい、痛い、暑い、寒い」を我慢し、剣道を続けることで強い精神力が養われた。

私の方は、筋肉痛、手のまめ、足のまめなど、鈍りきった体には堪えましたが、何とか続けているうちに「肩こりの解消」「脂質異常改善」「肝機能値改善」と効果が現れ、もうちょっとでメタボだった腹囲は8cm減り、健康体に近づいていますので、この調子でいきたいと思います。

最近、子供たちの体力の低下、人間関係を形成する力の低下、規範意識の低下などが懸念されていますが、この問題を解決する手段の一つとして剣道は有効であると感じます。そのためにも、節目の50周年を迎えた港南剣友会が、これから先も安定して活動できるよう力になりたいと思います。


 

炭谷 ゆかり
港南剣友会

3人の子供達が稽古に通いました。
2人は、中学、高校と続け、今でも精進しています。

「ヘタクソとやるのが1番痛いんだよ」
剣道をやっていた私の父が、体中をアザだらけにして帰宅した時に、よく言っていました。
お互いに痛い思いをする。

「宜しくお願いします」
「ありがとうございました」

例え対戦相手にでも、この気持ちを持って、初めと終わりには礼をする。
審判に対しても同じ。
稽古の相手にも、勿論同じ。

自分が痛い思いをしたときには、自分も人に痛い思いをさせている、と、気付く。

強く印象に残っている出来事は、長男が剣道を始めて2、3年ほどした9歳の頃に、道場内で試合があった時のことです。
「悔しい!」と言って負けた長男が泣いたことがありました。
失敗を恐れる時代に生まれ育ち、悔しい!という気持ちが日常にとても少なくなっています。
悔しい、と口にした時に、子供に剣道をさせて良かった、と思いました。
勝ったときの「ヨッシャ!」は自信になりますが、悔しい!という気持ちは、勝つために精進することに繋がったのでは無いでしょうか?

剣道は、勝つだけではなく、様々な学びが有ると思います。
竹刀1つ取っても、手入れを怠れば、稽古相手や対戦相手にケガをさせてしまいます。
先輩や先生方が、沢山のことをおしえてくれました。
今は、動画検索をすれば、剣道もなんとなく学べる様に思います。しかし、体当たりをし、鍔迫り合いをする事はできません。
人と人との関わりが希薄な時代こそ、人と人がぶつかり合う剣道は必要だと思います。

小6の時に、日本武道館の全国少年少女剣道練成大会に出場した事は、特に子供達にとって良い経験だったと思います。
武道館のコートに立てた経験は、一生の思い出となってくれることでしょう。
日本一ではなくても、素晴らしい経験をさせてくれた剣道と剣友会に出会えた事は、親として感謝しきれません。
何度も剣道を辞める、と、口にしてきましたが、ここまで続けてきたのは、やはり剣道が魅力的だったからだと、自信を持って言うことができます。

 

 

児玉 悠矢
創立50周年を迎えて

小学6年生のとき、5月の「こども祭り」と10月の「錬成大会」、私は何とか優勝することができました。小さい頃から港南剣友会で剣道をやってきて、現在は、先生となって指導している父、私は父の背中を追いかけて港南剣友会で剣道を続けてきたような気がします。優勝して頂いた大きなトロフィーには過去の優勝者の名前が入ったリボンが付いていて、そこには父の名前がありました。

私は、父と同じところに自分の名前が並んだ嬉しさと誇らしさが込み上げてきて、何とも言えない気持ちになったのを覚えています。

あと、私が小学5年生の時の錬成大会です。私はAチームの中堅で出場しました。決勝戦までは危なげなく上がりましたが、決勝戦の相手は、今まで勝ったことがなかったチームでした。でも、試合に出ていない仲間、父兄、先生方の熱い応援が力となり、優勝することができました。私の記憶の中では初の勝利です。実は、この数日後、私の家で祝勝会を開いてもらいました。当然、ジュースとケーキの祝勝会です。このケーキに「気合いだー」と書いてあったのを覚えています。




高校一年生
若林 深雪 
私が剣道を始めたのは

私が剣道を始めたのは、小学校六年生の夏。
弟の剣道の体験に半ば強制的に連れていかれ、その後、父に「お父さんもやるから一緒にやろう」と言われ、巻き込まれるような形で半ば強制的に始めさせられました。
剣道を始める時期は完全に周りの人よりも遅れていて、同い年の人たちとの技術の差に恥ずかしくなり、正直最初は剣道が苦痛でした。

剣道に行く日は、
夏の暑い体育館、手や足にできるマメ、重たい防具、汗臭い自分…
それらを思い浮かべると、嫌で嫌で仕方がありませんでした。それなのに終わった時には気持ちが清々しくて何だか自分がかっこよく思えて、嫌だという気持ちは自然と忘れていました。

「久しぶりだね!元気だった?」 「上手になったね!」
年齢という壁を作らずに、優しく接してくださる先生方。
一緒に頑張りたいと思える仲間たち。

半ば強制的に始めさせられた剣道で、私はたくさんのものを得ることが出来ました。
これからも私なりのペースで続けて行きたいと思っています。


 

小学五年生
若林 裕行
港南剣友会と僕

ぼくは、1年生の夏に港南剣友会に入りました。
なぜ始めたかというと、テレビで剣道を見て格好良く面白そうだなと思ったからです。

剣道をしたおかげで所作や礼儀などが身に付き自分から大きな声で挨拶ができるようになりました。
最初はやり方も分からず、一緒にお稽古をしている人となかなか話せなかったけど、のり先生や伊東先生や井上先生やお兄さんやお姉さんから話かけてくれて楽しくやることができました。

今では僕から話しかけてみんな楽しくやりたいです。


 

小学五年生
岡田 丈

港南剣友会の思い出

港南剣友会 50周年おめでとうございます。

ぼくは、幼稚園年長の時に入会しました。港南剣友会に入って一番嬉しかったことは、父と一緒に参加した日本武道館での全国大会に出場したことです。そして、一本勝負の試合で勝ったことです。団体戦としては負けてしまいましたが、チームのみんなと一生懸命戦ったことや、練習してきたことは、大変だったけどとてもとても楽しいことでした。

これからも、ぼくは先生たちのように、大人になっても剣道を続け、たくさん努力をしていきたいです。



 

小学五年生
桐原 太陽
剣道をやって良かったこと

小学生になった時、ぼくは友達に誘われて剣道を始めました。
剣道をやって、特に良かったなぁ~と思うことが2つあります。

【一つ目】
剣道を始める前や始めて間もない頃、学校でじっと立って整列するのが苦手で、つい動いてフラフラしてしまい、先生や良く注意されていました。しかし、最近はあまり注意されなくなり、親からはじっと座っていたり、立っていたりすることが出来るようになったと言われています。

【二つ目】
打ち込み稽古、かかり稽古を長い時間やっている時は苦しくて大変だけど、稽古が終わると疲れが全部消えて無くなり、すごくすっきりした感じがします。なので、剣道の稽古が無い休日は体を動かし足りないというか、すっきりしないというか、すごく退屈です。

剣道は楽しいので、これからも続けていきたいと思います。よろしくお願いします。 


   
   

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